福沢諭吉の言葉

「個性美学」創学へのヒント

人間の顔を数値化し、科学的アプローチを可能にするという構想も、実現するまでには非常な困難の連続でした。心強い支えとなったのは、顔の研究は“非科学ではなく未科学だ”という福沢諭吉の言葉でした。

福沢諭吉の言葉

福沢諭吉像 世界の人間の活動に絶対的に立派なことはない、といっても、それは今日の人間文明においてのことだ、というだけの話だ。私は、千年万年後には確実に絶対の立派な価値あるものになっている、ということを期待している。

 そこへの道筋は、まず、機械などの具体的な科学理論を知ることである。科学理論を追求して一歩一歩、天が組み立てた領域に入っていき、その謎をとらえ、真理原則をあますところなく明らかにする。そうすることによって、大宇宙が自分たちの手中のものとなる日がくるはずである。それはつまり、天と人とが合体したときであって、ここまでくれば、人間世界に形でとらえられない人の働きというものは存在しない。何かがあれば、必ずその原因または対応しているものが形に示されて、両者は互いに影と形のように直結してとらえられる。そして最後には、人の心の正邪・清濁から喜怒哀楽の感情までもが、感覚器官ではっきりとらえられるようになるであろう。

 今日でもすでに瞳の光で人物を判定したり、また、世にいう骨相学で手足の長短を測ったり頭蓋の凸凹を調べたりして、その人の特徴を判断するようなことがある。まったく根拠のない怪しげな方法のようではあるが、時には事実的中することもあるから、否定もできない。

 ここから一歩進めて、医学の領域で考えると、見るべきものが少なくない。たとえば、細菌学などは、昔の人が単に生理上の異常の病気だとして、漠然と見過ごしていた目に見えないことを、細菌という具体物に直結させて関係を明らかにし、さらに次々と進もうとしている。

 こうして医学の方向は、形でとらえられないところから、しだいに有形・具体の段階に進んできており、これから何十年何百年の後には、単なる「病気」だといわれるものはなくなって、すべての病気を、化学・光学・音響学・機械工学などの中に包含して、病気があれば直接その原因物質を特定して示し、病気治療とは具体的な物質科学の範疇を出ないものとなるに違いない。医学でもこういう状況だから、ほかの分野においても大きな進展が期待される。

 人の心が同じでないのは、人の顔が違うのと同じで、善悪・正邪・剛柔・気長か短気かなどの識別は難しいけれども、心は必ず身体の実質と関連しており、心だけ、身体だけという具合に独立していない。両者はちょうど影と形が映り合うようなものだから、自然科学の進歩がだんだん人体の内部にも及び、次々と細かく複雑なところを掘り下げていき、身体の運動や変化の機能を解明したら、身心の関連が正確にわかり、人の心を機械的に観察できるようになるかもしれない。

 現在の幼稚で不完全な医学でさえ、すでに精神と物質的実体とのつながりを解明しようと努力している学者がいる。病人を解明する筋道があるのなら、健康な人の解明ができないわけがない。まだ文明の未熟な今日だからこそ、新しい意見を述べても理解されにくいのであるが、学者に深遠な思想があるのならば、独自に百年、千万年の末来を思い描けるのである。

 そこでは、人間界の形あるもの、形のないもの、すべてを自然科学の中に包み込み、その普遍的な光で一目瞭然に照らし出し、今の世の暗闇が真昼のような光景に変わることは疑いもないことである。それゆえ、今日の自然科学が不完全であるとしても、その研究は人間にとっての絶対的によきことに向かう正しい道筋であるから、学者の一日の努力、一つの発見に対して、私は絶大な賛辞を呈するものである。

『福翁百話』(1897年頃執筆)
岩松研吉郎・現代語訳・三笠書房刊より

*写真:福澤諭吉の胸像。慶應義塾大学・三田キャンパスの図書館旧館の前
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